私がなぜ不動産という仕事や家造りをするのか、その訳をここにしるしておきたいと思うので

す。

家造りを考え始めようとしているあなたになら、きっとお分かりいただけるものと思います。家づくりで一番大切なことを書きました。

長文になってしまい恐縮です。時間のあるときにお読みいただければと思います。

今日の今日まで、誰にも言えず私の心をしばってきた小さな秘密もあなたにお話ししたいと思います。

 

生まれ在所

私は昭和31年生まれです。

門川町大字川内の松瀬という小さな村に生まれました。

まだ戦後の貧しさが残る頃です。

家はごく普通の農家でした。六人兄弟の末っ子が私です。

私の名前の透(とおる)というのは読んで字のごとく純粋で透明な心の持ち主であるようにとの

父の願いだったようです。

小さい頃に住んでいた家は大きな家で柱や梁は太く黒光りしていて、とてもりっぱな家でしたが昔の田舎造りで、お風

呂や便所は外にあって、とても不便な家でした。

しかも100年程はたっていたでしょうか?とにかく古い家でした。

 

父の死と暮らし

私の父は、ひょうきんな一面もあったようですが、どちらかというとマジメな人間でいつも書物

を手離すことがないほど、とても勉強家だったようです。

なんでも戦後すぐに代用教員として延岡市北方町の小学校で一時期教えたこともあったようでした。

そんな父も私が三歳のときに病気で亡くなってしまいました。生前の父の面影はありません。

母と私達六人兄弟が残されました。それからが母の苦労の始まりでした。

母はまだ三十代の若さでした。

時代が時代でしたから普通の貧しさだけなら特別に我が家だけがということではありませんでした

が、三十代の母にはまだ小さい子供六人を抱えての村での生活は過酷でした。

年長の姉二人は嫁に行く前の十代の頃からすでに農業を手伝いはじめ、農閑期には,土方仕事に

出て家計を助けていました。

とても貧しい生活でした。

母は、たびたび私を連れて親戚の家にお金を借りに行くこともありました。お陰様で有りがたいことに誰もが母には

親切にしてくれました。

母はとても誠実であり、きちんとお金を返していたので信用もあったのだと思います。

そんなわけで我が家の生活が苦しかったことは子供の私にもなんとなく分かっていました。

私が5~6歳の頃です。

そして母は苦労して苦労して真ん中の兄から下の四人を高校まで通わせてくれたのです。

母には、こんな話があります。

私のすぐ上の姉を高校にやるときに母は奨学金制度が借りられないと知り、その悔しさからか、

ある人に手紙を書いて窮状(きゅうじょう)を訴えたことがあるようです。

元宮崎県知事をされていた相川勝六という人でした。

母の手紙がこの方に届いたいたかどうかは知る由もありませんが姉は無事に高校へ新学出来たもの

です。

男まさりの気性の激しい、おそるべき母ではありますが、反面、私にはとても優しい母でもあります。

 

クツと針金

母との想い出を一つ二つ、お話させて下さい。

私が小学校に上がる前の、ある日、母が真新しいクツを買ってくれました。

私はうれしさのあまり、そのクツをさっそく履(は)いて遊びに出かけたのはよいのですが、溝に

足を滑らせ、片方のクツのつま先がパックリと裂けてしまったのです。

歩くたびにつま先がパクパク口を開いて足の指が全部出て、とても冷たくて悲しくなりました。

一日でクツをダメにしたとはとても母には言えませんでした。

でも、すぐに母に見つかりました。私はてっきり母が怒るものと覚悟しました。

と、いうよりも母はきっと悲しい顔をすると思いました。

私は母の悲しい顔を見るのがとてもイヤでした。私まで悲しくなるからです。

ところが母は私を叱りませんでした。「また買ってあげるが・・・」とだけ言いました。

新しいクツを買う余裕などないことは知っていましたので、何も言わない母の言葉が余計に心に痛かったことを今でも

はっきりと覚えています。

私はクツがどうしても捨てられないので、どうしたかというと、縫い針が使えない私は、不器用な

小さな手で、クツのつま先を針金で縫い合わせて2、3ケ所をペンチで留めてそして履きました。

もちろん母にはナイショでした。母は見てみぬフリをしていたのかも知りません。

つま先が痛くて血豆が出来ました。それでもしばらくの間、我慢して履いていたものです。

子供の私なりに考えた優しい母への精一杯の罪ほろぼしでした。

 

私を苦しめた、ある小さな秘密・・・

もうひとつだけ大事なお話をさせてください。

私が今日まで、誰にも言えずに秘密にしてきたことをあなたにお話します。

お願いです。笑わないで最後まで聞いてくれますか?

それは・・・

私は小さい頃から中学二年生の頃までオネショがなおらなかったことです。

小学生の頃までならまだしも中学生になってもですよ・・・。

な~んだそんなことと言われそうですがお願いです。最後まで・・・

オネショは毎日続くのです。しない日がなかったぐらいです。

暖かいはずのフトンの中はいつもビニールが敷いてあって冬はとても冷たかったものです。

私は縁側に干されている地図フトンを友達の誰かに見られやしないかと毎日ビクビクしていました。

小学六年生の修学旅行の夜などは一睡もしていません。

そして、さすがに中学生にもなると、とても恥ずかしくて夜はフトンの中でいつも泣いていました。

中学二年生になっていた私はある夜、意を決っして母に訴えました「なんで俺オネショするんや

ろ!」自分への怒りでした。

でも母は一言「大丈夫やが・・・」母の顔は笑っていました。その夜、母は何事も無かったかのよ

うに先に寝てしまいました。

次の日から不思議なことが起こりました。オネショがなかったのです。

その朝のフトンが、あたたかかったことと母のあたたかい笑顔がうれしかったことが心に焼きつき

ました。

それ以来オネショはすっかりなおってしまいました。中学二年生も終わる頃です。

今思えば子供のことであり、この話を読んでいるあなたにとっては、つまらない話とお思いでしょう

が・・・

実はこの話はこれで終わりでは無いのです。

 

地獄のように思えた日々・・・

このオネショ話はどれだけ私を今まで苦しませてきたかお分かりになりますか?

いつの間にか忘れていたはずなのに50歳を過ぎた今日まで引きづっている自分に気が付いたので

す。

たぶん同級生や周りの友人は誰一人として口には出しませんでしたがおそらく私のオネショのこと

は知ってたことでしょう。

体が丈夫で遊びや運動などではみんなに引けをとらないはずの私が、中学生にもなってオネショが

なおらないとは・・・・

私はこのことがバレないようにと内心恐れていたのです。

しかも極度にです。

いつかは友達の誰かがオネショ話をみんなの前でバラしてしまうのではないかと不安な毎日だった

のです。

中学一年生になったときから、私の頭の中はそのことだけでいっぱいでした。

オネショのことでバカにされないようにと強がってばかりいたのです。みんなにもわざと強いとこ

ろを見せようと無理をしていたのです。

そんな私の悩みなんか知る由もない友達や先輩は、いきがっている私を見てはナマイキなやつだと

いってイジメまし

た。殴りつけました。とても悲しくてつらいことでした。

それからの私はみんなと毎日顔を合わせるのがとてもイヤでした。

みんなには楽しいはずの中学時代も私にとっては地獄のような二年間だったのです。

当然、学校にも行きたくありませんでした。

でも私は母を悲しませたくない一心でガマンしてガマンして学校に行きました。

そしていつしか私の体に異変が起こるようになりました。

土曜日になると不思議と熱が出るのです。私は土曜日には学校を休むようになりました。

心が苦しくて次の日曜日までとても持ちませんでした。

それ程に心が病んでいたのです。

日曜日は何もする気が起こらずにボーと過ごすことが多くなりました。

母には最後までカゼを引いたとウソをつき通しました。

 

心がついに折れたあの日・・・

そして、ある日の学校での出来事です。

恐れていたことがついに起きたのです。

それは私の予想とは違って別な形で突然目の前に現れました。

それはまるで大きな黒い化け物がいきなり私の目の前に現れたような気がしました。

今にも私を押しつぶしてしまいそうでした。

ある友達がみんなの前で言ったのです。

「とおるは土曜日になると給食が無いから休むんじゃろ!」と・・・からかいました。

当時の給食は本当においしくて私達には夢のようなごちそうでしたから、それを聞いたみんながい

っせいに大声で笑い

ました。その場にいた担任の先生までもがいっしょになって笑いました。味方だとばかり思ってい

た先生までもがです・・・・。

先生のその顔は笑っていましたが、私にはまるで鬼のように見えて・・・

私は何も言えず悲しくて、恥ずかしく、悔しくて、顔を真赤にしてその場を必死でこらえました。

その日、一日中心が傷ついていました。

長い長い学校での一日でした。

学校が終わって、私はいつもの友達とは離れて、家までの長い帰り道を自転車で一人、帰りました。

その日の帰り道、廻りは山ばかりの、ひとけの無いところにきたときでした、それまでこらえていた

感情がいっきに胸をつき上げてきました。

私は自転車をこぐことが出来ずにその場に自転車を止めて大声を上げて泣きました。

・・・・・・・・・・・・・・

私にとっては月曜日が来るのが苦しい日々でした。

今でも思い出したくない、つらい日々です。あの時の自分を思うと今でも自然と涙があふれてきます。

 

小さな心に誓った夜

その頃です、私は、夜、フトンの中で心に強く誓ったことがありました。

いつか大きくなったら私を笑ったみんなを見返してやる!絶対に負けない!

そして優しい母にはけっして悲しい思いをさせない。そのために自分は頑張って絶対に優しい母の

ためにキレイなお家を建ててあげて、母といっしょに住み、母に楽をさせてあげると、そう心に

誓ったのです。

転校が転機に・・・

それから、ようやくにして私も苦しみから解放される日がきました。

私が中学三年生になるときに母は門川の町へ出ることを決意したのです。

その頃すでに兄は高校を卒業していましたが、次の姉が高校三年になると私のすぐ上の姉が高校へ

入学し、その姉が三年になる頃には今度は私がまた高校に上がることになるのですから、何年たって

も暮らしは一向に楽にはならないのです。

おそらく、もう何年もこうしていることに母は絶えられなかったのでしょう。

村の生活ではとても無理があると考えたからに違いありません。

母は私を中学の途中で転校させることに悩んでいました。

きっと私がイヤがって非行に走るのではないかと余程心配したらしく当時はとても悩んでいたと後

から聞かされました。

でも私は心の中で転校がどれほど嬉しかったことでしょう。

”ああ、もうこれで私のことなど知る人はいない”と内心喜んでいたのです。

私のこの中学生の頃のつらかった話は今まで誰にも話しをしたことはありません。

ずっと心に封印してきたのです。

もちろん母には今でも話をしたことはありません。

 

もうひとつの誓い・・・

家の方はというと、門川の町に出てからしばらくは町営の住宅を借りて住んでいましたが私が、

高校生のときに母と姉が苦労して小さな家を買いました。上の三人は家を出ていましたので下の

三人と母との四人で暮らしていました。

やがて私は高校を卒業すると同時に社会へ踏み出しました。

そして・・・やがて、私にも愛する人ができたとき・・・

私は母に誓ったこととまったく同じことを、その人にも誓ったのです。

私が二十五歳のときです。まだ会社勤めをしていた頃でした。

私はその人に言いました。結婚したら五年後には独立することと、そして・・・

十年後には家を建ててあげると誓ったのです。

またたく間に月日は流れましたが、私は妻への誓いをひとつづつ実現してきました。

 

でも・・・あの日から母には・・・

奇(く)しくもそれはちょうど私の家の新築祝いの日の朝でした。

私が念願の家を建てたその日、私のまったく予期していないことが静かに進行していました。

その日、新築のお祝いを母もきっと喜んでくれるはずでした。

でも、実家へ母を迎えに行ったとき、あの優しいはずの母がいつになく、けわしい顔をしているの

です。普通ではありませんでした。

私が母の異変に気がついたのはその時が最初でした。

母にはいつのまにか認知症が現れ始めていたのです。

その日を境に年ごとに進む母の認知症のために残念ながら母とは暮らすことはかないませんでした。

出来ませんでした。

今も元気なのですが、もうこの私が誰かさえもわからず施設のお世話になっています。

まさに親孝行をしたいときには・・・今となっては後悔でいっぱいです。

 

私の変わらぬ誓い・・・・

ここで私のお話はひとまず終わります。

もうあなたにはご理解いただけたのではないでしょうか。

そうです・・・

私が小さい頃からいつも心に誓ってきたこと、願ってきたこと、いつの間にか私の心に住みついて

いた想いとは・・・

それは・・・

”家を建てて、大切な人を幸せにしたい、大切な人を守りたい”ということでした。

それこそが子供の頃からづ~とづ~と変わらない私の願いでした。

豪華な家ではないけれど・・・

私が建てた家は豪華でもなければ、りっぱな家でもないかもしれません。

若かったし、商をしているので、お金を家だけに振り向ける余裕はありませんでした。

でも私にとっては心から大満足の家なのです。

妻も私と同じ気持ちだと思います。

若いときにはみんなお金が無いものです。

もしあなたが若い方なら若いあなたには無理をして豪華な家を建てることはして欲しくありません。

余計なお金も出してほしくはありません。

小さかろうが大きかろうが、自分の等身大の家を造る!それが一番ではないでしょうか。

ご家族をお持ちの方なら中古住宅であれ新築住宅であれアパートを借りるのであれ、

想いは私と同じではありませんか?

家のために苦しむのはいけません。

家を建ててそのために家族が苦しむのであれば、それはとても悲しいことです。

もし、そうであるなら家は建てない方がいいのです。

 

よくもその顔で・・・

「とっつきにくいその顔でよくも商売が・・・」

私の顔をよくこう言って知人やお客様がからかいます。私は甘んじて受けながら「余計なお世話、

ほっといて」と笑顔で応えるのが常です。

私の顔は私の心に残るトラウマのせいでしょうか?

ついつい初対面の人には身構えてしまうのです。

人前では赤面症です。言葉も上手くしゃべれません。

お世辞や歯が浮くようなことを言うのはキライです。

おしゃべりするのには慣れるまで時間がかかります。

もし怒っているような顔に見えたらどうか許して下さい。それはあなたに向けたものでは決っして

ないのですから・・・。

私は自分の父の願い通り透明なまでに心の純粋な人間」でありたいと思っています。

そして母の教え通りこれからも「誠実に、ただ黙々と仕事をやっていきたいと思っています。

 

出会いに感謝して・・

当時を振り返り、今思えば、私が経験してきたことはたわいもないことであり、どなたにも多かれ

少なかれ似たような経験はあるものと思います。

今では、私を笑った昔の同級生ともみんな仲良くやっています。同窓会が待ちどおしいくらいです。

今まで敵のように見えていた友達も、実は私を成長させてくれる有り難い存在だったのだと、後にな

ってやっと気がつきました。全てが私にとっては意味のあることだったのです。

中学校を二つも出たおかげで私にはたくさんの同級生がいます。有り難いことです。

この地球上の何億という人の中で、友人であれお客様であれみんな縁があって出会えたのですから

それはまさしく奇跡です。

この奇跡に私は心から感謝するばかりです。

そして私は、生きているようでいて実はたくさんの人・物・事に生かされていたのだと教えられま

した。

そう教えてくれたのも母でした。

私はこれまで、多くの人に支えられてきました。私も懸命にその人のお気持ちに添えるように応え

てきたつもりです。

だからこそ私はこの仕事を三十年近くもやってこれたのだと思います。

 

最後に・・・

この長いお話は全て私のありのままの姿を書きました。

でも、その目的は私の生い立ちを語るのが目的ではありません。

家を持とうとしているあなたに分かっていただきたいのです。

家の構造や仕様などももちろん大切なことではありますが、その前にもっと大切なことがあるので

はと思うからです。


きっと、今、家のことを考え始められた、あなたにならお分かりいただけるのではないかと

思います。

ときどき、家を新築した方がいいのか、中古住宅を買う方が良いのか質問を受けることがあります。

それは本当のところ私にもわかりません。

でも、あなたがもし・・・家造りで失敗したくない! 家造りで大切なものってなんだろう?

・・・

真剣にお考えになっているのであれば、迷わす私に声を掛けて欲しいと思っています。

私と同じ想いで家をつくろうとするあなたのお力になりたい!

それこそが私の使命だと思っています。

そのことこそが私が家造りをする本当の理由です。

資料だけくれればいい!とか、豪華な家やカッコいい家が欲しい方、ただ安ければいいという方は

申し訳ありません・・・

とてもお役には立てそうにもありません。

他にも業者さんはたくさんいらっしゃるはずですから・・・

私達はあなたの想いを実現するために、そのお手伝いをしているだけの小さな会社です。

まだ見ぬあなたにお会いできる日を楽しみにしています。

最後までお読みいただいたことに心から感謝を申し上げます。

 

追 伸
私一人が家造りの全てに精通することは出来ないかも知れません。

でも、あなたが私に信頼を寄せていただけるのであれば、お応えすることは出来ると思います。

なぜなら・・私は住まい造りにも不動産にも真剣だからです。

私と私共の社員や、業者さん、職人さんとは他社には無い何かで一つにつながっていると感じて

います。

想いは同じと実感しています。

ですから、全ては私、松本が責任を持ちます。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください